EXHIBITIONS

小平雅尋 「videre videor II」

会期: 2023年7月15日(土) – 8月12日(土)
会場: amanaTIGP
オープニング・レセプション: 7月15日(土)17:00 – 20:00

amanaTIGPは7月15日(土)から8月12日(土)まで、小平雅尋の個展「videre videor II」を開催いたします。amanaTIGPでは5年ぶり3度目の個展となる本展では、2014年以降に撮影された写真群より11点を展示いたします。本作は、今年4月から6月にかけて東京アートミュージアムでの「フィルムフォトのアクチュアリティー」にて展示された「videre videor I」に続く作品です。

小平は自らの直観的反応に拠った撮影行為を続けながら、いかようにして対象を認識しシャッターを切るに到るのか、省察を続けてきました。本シリーズでは、ルネ・デカルトのコギト命題<われ思う、ゆえにわれあり>へ至った一文「私は確かに見えると思われ(videre videor)、聞くと思われ(audire videor)、熱を感じると思われる(calescare videor)」を端緒にこれらの問いを再考し、一種の帰着点を提示しています。

近代的自我の指標とされるルネ・デカルトのコギト<われ思う、ゆえにわれあり(cogito ergo sum)>
私は長い間、この言葉を遠ざけてきた。何故ならば、私の撮影時の感覚を細かに辿ると、<われ思う>という認識が事の始まりとは思えなかったからだ。
コギトは様々な評説を伴っていたが、臨床心理学の長井真理*は、デカルトがコギトへ至る一文「…私には確かに見えると思われ(videre videor)、聞くと思われ、熱を感じると思われる。これは虚偽ではあり得ない」に注目し、コギトは単なる能動的な<私は思う>ではなく、能動態でも受動態でもない、自分自身に向けられる態=中動態と指摘する。そして 「そのような<私>こそが、言葉の真の意味での<主体sub-jectum>(下にあるもの、根底に横たわるもの)なのである」と述べている。 
いつの間にか目が対象を感じ、それに連動して情動が湧き、カメラを持つ手に力が入る頃、ようやく<われ思う>が現れる。<われ>は、すぐさま自らが考えて行動を起こしたかのような錯覚を起こし、目の奥の<それ>を消し去ってしまう。
*長井真理 『内省の構造』岩波書店p.192-193

2023年4月 小平雅尋

本展での展示作品は全て作家の自宅暗室でプリント作業を行い、印画紙に露光する段階においては35mmネガフィルムで撮ったイメージを長辺100cmにまで引き伸ばしました。高い拡大率で投影することで画面を構成する粒子の質感とコントラストが際立ったプリントからは、直観的反応の成果物である写真の視覚的強度の高まりや、撮影行為を反復することで生じる写真の身体性を追求してきた作家作品の写真性の強さが見てとれます。

本作では人間の身体のごく一部に撮影範囲を絞り込んだ作品が初めて登場します。自己と世界の関係性を思索する手段として無意識のありように注視してきた小平にとって、被写体としての「人」への接近は、<社会>、そして前作「在りて在るもの」で捉えた<隠れし意識>との融解にも迫っています。作品と対峙し、自然発生的に認識する対象への印象と、熟視してはじめて認識するそれの間に差異が生まれたとき、鑑賞者もまた瞬間的に「videre videor」の境地に佇んでいると言えるでしょう。

小平雅尋は1972年東京都生まれ。1997年東京造形大学卒業。在学中より高梨豊、田村彰英らに写真を学び、1996年からは写真家・大辻清司の作品アーカイブのプロジェクトに参加、展示企画やモダンプリント制作に携わる。小平は、世界と自身との関係における根源的な謎への関心を背景に、様々な環境に対して示された自身の直感的反応に拠って撮影を行う。こうして獲得されたイメージは、高度な暗室技術を通じ、類まれな視覚的強度を備えた作品として定着される。主な個展に「ローレンツ氏の蝶」アイデムフォトギャラリー・シリウス(東京、2002年)、「続きの代わりに」月光荘(東京、2009年)、「他なるもの」表参道画廊(東京、2013年)、「他なるもの」タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム、プラザギャラリー(東京、2015年)、「在りて在るもの」タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム(東京、2018年)、「顕れ」空蓮房(東京、2019年)など。近年の作品集に『同じ時間に同じ場所で度々彼を見かけた』(シンメトリー刊、2020年)、『杉浦荘A号室』(シンメトリー刊、2023年)など。

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