EXHIBITIONS

山口長男

会期: 2017年2月2日(木) – 3月18日(土)
会場: タカ・イシイギャラリー ニューヨーク
アジア・ウィーク・ニューヨークに合わせ、3月12日(日)と13日(月)は通常開廊いたします。

タカ・イシイギャラリー ニューヨークでは、2月2日(木)から 3月18日(土)まで、山口長男個展を開催いたします。山口は、西欧の新しい芸術様式に追随する形で展開した近代日本美術界において、独自に非具象的な表現を探求し、簡潔な形体と構成を備えながらも重厚な画面で確かな存在感と豊かな空間の広がりを持つ作品を制作しました。本展では、矩形の面の拡がりと色面の重なりが際立つ60年代の作品2点と、マチエールの充実による豊熟期を迎えた70年代の作品4点の計6点を展示いたします。

京城(現ソウル特別市)に広大な田畑を有する裕福な家庭に生まれた山口長男は、中学の時分より絵画に関心を持ち、東京美術学校に入学しました。不器用を自認していた山口は、美術教育における基礎の習練を通じて、外形の細部描写や油彩表現技巧の洗練よりも、事物を把握し全体としての色調を捉えるという後の山口の画業に一貫する作画姿勢の基本を早くも見出していました。

第13回二科展(1926年)に特別陳列された佐伯祐三の滞欧作に感銘を受けた山口は、パリへ戻った佐伯の後を追うように渡仏します。同じく佐伯の鬼気迫る制作に感化された萩須高徳、横手貞美、大橋了介らと共に写生旅行を敢行しましたが、作画の点でも佐伯の影響を取り込んだ3名に対し、山口は専ら、対象から直観的に把握した「性格」を表現するという態度に学びました。1928年、山口は萩須らとともにパリ郊外のヴェトゥイユに別荘を借りました。山口以外は次第にパリ風景やアトリエでの制作に向いますが、山口は単純ながら限りなく深い自然の実相に魅了され、自然に還ることを強く意識することとなります。また、西村叡の紹介でオシップ・ザッキンのアトリエへ足繁く通い、対象の「骨格」への志向を育みました。「西洋にきてみて、今までが怪しいから、最初からやり直そうということで過去を捨てようと考えた」と語るように、山口は自身の写生的な曖昧さを取り払い、触覚を土台とする「全身的な知」を動員して対象の実体を捉える姿勢を強めていきました。1931年の帰国後、有島生馬の勧めで二科展に出展した山口は、二科会が創立20周年を迎えるにあたり東郷青児が中心となって設置された前衛傾向の作家のためのモダン・ルーム、第九室の常連となります。1930年代は、独立美術協会の創立(1930年)や自由美術家協会の結成(1937年)などに見られるように、抽象・シュルレアリスムの二大潮流が日本の芸術界に流入した時期でした。絵は家業の合間に描くという「半農半画家」であったにもかかわらず、前衛絵画の黎明期にあって独自の表現を行っていた山口の存在は特筆すべきものであったと言えます。

太平洋戦争が勃発すると、京城から作品を送ることが難しくなり、1945年には山口も召集されます。終戦を迎え、山口が京城から引き上げてきたのは1946年のことでした。戦災と敗戦によりそれまでの作品はほぼ失われたものの、戦前の仕事を「習作」「描きくずし」と呼び、「終戦は私の様相を一変し(……)漸く零に座った」と述べる作家の制作意欲は途切れることなく、戦後まもなく二科会再建の呼びかけに応じ活動を再開しました。それまでの簡潔なフォルムと描線による空間的描写に対して、戦後の山口の作品は、暗色の地に自身の「性格色」である赤茶や黄土色の形体へと変化していきます。ここには、具象から抽象への移行というよりは寧ろ、明確な形体それ自身の把握と構成への志向が表れています。壁塗りのコテのようにペインティング・ナイフを用いるため、1952年より支持体には合板が用いられ、絵の具は厚塗りになりそれ自体に実体感が与えられるようになりました。

私のすることは抽象というより原始の根を欲している。(……)私の塗る板は絵とか作品とかいうものではないようにも思える。私はそれでありたくない。ただ何かができるようにそれを追っている動作に過ぎない。多彩をつかった絵具は単純になって無色となり体色となった感がある。

山口長男、「あしあと」、『芸術新潮』、新潮社、第230号、1969年2月号より抜粋

日本の美術界でも漸く抽象的な傾向が盛んになり、戦前から活躍した前衛作家の仕事が成熟の度を強める中で、山口は自身の意志とはかかわりなく抽象美術のパイオニアとして現代日本美術の第一線に押し出されます。50年代後半には主要な国際展に出品、西欧の知的な画面構成とは異なるプリミティヴかつ堅牢で動感にみちたフォルムは国際的な評価を集めました。作画の面では、円に近い形と直線や曲線の輪郭を持つ単純な形の色面との組み合わせから、縦横の格子状の形の構築を経て、矩形を基調とする重厚な色面の形の積重ねへと展開していきます。事物の根源的な実体を捉えるべく生まれた明快なフォルムの構成は、やがて画面いっぱいに拡がる色面によって概ね覆われ、ペインティング・ナイフによる手の動き、絵の具の重層、絵肌の凹凸や裂け目といったマチエールが強調されますが、マチエールの充実はとりもなおさず作品自体が豊かな生命力を獲得することを可能にし、全体としてひとつの実体を形成するに至っていると言えます。

山口長男は1902年京城府(現ソウル特別市)生まれ(1983年没)。1927年に東京美術学校を卒業。1927年より3年間フランスに滞在、佐伯祐三やオシップ・ザッキンらとの交流を通じて、対象の骨格・実体を捉える制作志向を強める。1931年の帰国後、有島生馬の勧めで二科展に出展、以後戦中・戦後の休会期間を除いて62年まで二科展に出品を続ける。1933年に二科会が創立20周年を迎えるにあたり東郷青児が中心となって設置された前衛傾向の作家のためのモダン・ルーム、第九室に出展。1938年にはこの部屋に並べられていた作家のうち、山口、峰岸義一、吉原治良、桂ユキ子らを発起人として九室会が結成されることとなり、日本の前衛絵画推進の拠点の一つとなった。1946年に京城を引き上げ、上京。1953年、日本アブストラクト・アート・クラブの創立に参加。1954年武蔵野美術大学教授、1982年には武蔵野美術学園学園長に就任し、後進の指導にも務めた。主な個展に「山口長男展」南画廊(東京、1961年)、「山口長男展」北九州市立美術館(福岡、1980年)、「山口長男展」鹿児島市立美術館他巡回(1993-1994年)など。主な国際展に第18回アメリカ抽象美術展(1954年)、第3回サンパウロ・ビエンナーレ(1955年)、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ(1956年)、グッゲンハイム国際美術展(1958年)など。主な受賞に第1回現代日本美術展優秀賞(1954年)、芸術選奨文部科学大臣賞(1961年)など。

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